ご挨拶

日本で小児科医師となり、アメリカでの勤務医、開業医を経験し、そして沖縄の豊見城中央病院での勤務を経て、那覇市内にて小児専門クリニックを開設しました。その後、駐車場や診療スペースの不足などから、南風原町津嘉山にクリニックを拡張移転いたしました。
お子さんも、お母さん方も、そして何よりクリニックで勤務する私たちが感謝の気持ちを大切にしながら、一緒にお子さんの成長を育むことのできるクリニックにしたいと思います。

ありがとう子供クリニックのホームページにようこそお越しくださいました。
少しでも当院のことを知っていただき、診察にあたる私のことを知っていただければと思い、文章を作りました。
本当に大した内容ではありませんが、診察を受けられる前に、もしお時間があるようでしたらこちらもご覧頂き、参考にしていただければ嬉しいです。

柔道に夢中だった学生時代

柔道に夢中だった学生時代

写真は大学時代のものですが、中学高校と柔道にあけくれました。

中学、高校時代は強い男に憧れて、柔道にあけくれる毎日でした。

高校の柔道部顧問の先生は、
柔道の創始者、加納治五郎(かのうじごろう)直伝の弟子(!)
という柔道9段のおっかない先生でした。

しかし生徒の心をつかむのが大変上手く、
その指導のおかげでインターハイで私の高校は
17年連続出場と県内では当時無敵の状況でした。

私も選手として高3の夏、インターハイに行く予定だったのですが、直前に怪我をしてしまい、泣く泣くあきらめ、受験に専念することにしました。

しかし、それも今振り返るととても良い経験でした。柔道を通して「辛抱強さ」の何たるかを多少は学べたのではないかと思っています。

目標の定まらない医学部生時代

目標の定まらない医学部生時代

医学部5年生時の医学祭で、同級生と。いつもふざけていました。

大学受験するにあたり、
「果たして自分が何になりたいか?」を
柔道部をやめてから考えるようになりました。

父は耳鼻科の開業医でしたが、
医者になれと言われたことは一度もありません。

「人間相手の仕事をしたい」とは何となく思っていたのですが、
世間のことを知らない高校生にとって思いつく人間相手の職業は、 医者か、教師くらいという世間しらずでした。

大変尊敬していた高校時代の恩師の勧めもあり、
医学部を目指すことにしました。

しかし医学部に合格したあとも、
未だ「本当に自分が医者になりたいのか?何のためになるのか?」
がわかりませんでした。

教育学部の学生が中心のボランティアサークルに
入っては教師になりたいと思ったり、
地方巡業(ドサまわり?)専門の劇団にはまり、
東京の本部で飯炊きなどをするなど、
気持がふらふらした時期でもありました。

一時期、真剣に劇団に入ることを考えていた自分は、
一人の先輩医師に一喝されたのです。

その先輩は医師の仕事の素晴らしさを説き、
自分が院長をしている病院の一人の入院患者さんを
私に任せてくれました。

「医学知識は関係ない、人間としてその患者さんに向き合ってみなさい」

そう言われ、10日間ひとりの患者さんに付き添いました。

その日々は、ここには書ききれないほどの多くのことを気づかされる貴重な経験でした。
ようやく自分の肝がすわり、心から「医者になりたい」と思ったのは
間違いなくこの経験があってからのことです。

沖縄への赴任、そしてアメリカへの志

沖縄への赴任、そしてアメリカへの志

小児科研修医時代の1枚です。

卒業を控え、そろそろ進路を考える6年生の時に、
「沖縄県立中部病院」の話を耳にしました。

「とてつもなく忙しいが、大学で研修するのとは
比べ物にならないくらい、医者としての実力がつく」

という話でした。
当時は大学卒業後、地元もしくは卒業大学の医局に入るのが
当たり前で、九割以上の医学部卒業生は、大学に入局する時代でした。

新潟の冬の寒さ、鉛色の空に辟易していた面もあったのかも知れません、 青い空、青い海の沖縄での研修がバラ色に感じられました。

また何より医者としての実力がつくということに魅力を感じ、
沖縄県立中部病院で研修をすることにしました。

そこでの研修はすべてが衝撃的でした。

青い海と青い空どころではなく、
よれよれになっているうちに最初の夏が終わっていました。

しかし、周りには、アメリカで臨床研修を受けた先生をはじめ、
自分も10年たったらあのようになれるだろうかというような、
黒帯、達人がごろごろしていました。

また毎年10-15人の規模で米国から招請する短期指導医たちの
印象は強烈でした。そのような環境の中で、明らかに純和風であった私も、
アメリカ留学を夢みるようになりました。

アメリカでの留学経験

アメリカでの留学経験

アラバマで研修医仲間とともに。英語で泣かされました。

幸運にもアメリカへ留学する機会を得ることができ、
6年間研修医として、また一からアメリカで勉強しなおしました。

何といっても苦労したのは英語です。

まったく通じない自分の下手くそ英語にいつも冷や汗をかきながら、 なんとか周りに助けてもらいながら研修を終えることができました。

その後は、ピッツバーグで2年間、ホノルルで7年間、
専門医として開業しました。

アメリカの医療といえば、すべてにおいて進んでいると感じる人が多いと思います。

確かに非常に進んでいる点は多いのですが、実は問題点も沢山あるのです。

そのひとつとして医療費の高さがあげられます。

嫁が盲腸で手術を受けました。

アメリカは入院期間が、日本にくらべて大変短く、
24時間以内には退院です。

そして医療費は、
もし保険に入っていなければ、150万円の請求でした。

アメリカは国民健康保険のない唯一の先進国です。

国民は、日本の生命保険のように、自分の予算に応じて、
健康保険を買います。

普通の健康保険に家族で入ると、毎月の保険料が約10万円かかります。

当然、保険に入れない人も多く、貧困層には福祉の保険が適応されます。
しかし福祉の保険では、最低限の医療しかうけられません。

インフルエンザに「タミフル」という特効薬がありますが、
数年前まで福祉の保険では、カバーされませんでした。

自費でタミフルを買うと1万5千円します。

つまり貧困層は、薬があってもその恩恵にあずかれるとは限らないのです。

そして医療費がかさむと、家をとりあげられることも珍しくありません。

そう考えると、日本という国はとても住みやすい国だと思います。

日本人それぞれがこの状況に対して、
もう少し感謝の気持ちを抱いても良いのかも知れません。

診療に際して心がけていること

診療に際して心がけていること

ハワイで開業していた時の診察風景です。

アメリカでは医療システムの違いもありますが、
患者さんは、必ず同じかかりつけ医(家庭医)にかかります。

勝手に別の医者に行くと保険が支払ってくれません。

つまり自分がやった事に対しての責任は
自分がとらないといけません。
患者に対して責任がより重いと言えます。

しかしその中で、
患者さんをきちんとていねいに診る喜び、
子供たちが大きくなっていくのを見守る喜び、
それは日本でもアメリカでも違いはありません。

アメリカでの勤務を経て、
那覇市と豊見城市の境であるこの場所で
小児専門クリニックを開設することになりました。

日本ではシステムが違いますが、その場だけの治療ではなく、
かかりつけの医師として、ずっと子どもを診ていきたいと思います。

そして子どもたちが成長し、

自分たちがお父さん、お母さんになっても
自分の子供を連れていきたいと思うようなクリニック、
世代を超えてつきあっていけるクリニック

にしたいと思います。

私は不必要な検査、点滴、処方はしたくありません。

人間の体は自分で治る力を持っています。

もちろん適切な処方は必要ですが、不必要な投薬は体に有害なこともあります。
点滴も水分が口から摂れるのであれば、必要ありません。

特に小さい子供の点滴は容易ではなく、何度も針を刺すこともあります。
もちろん点滴が必要な時はあります。
しかし、それ以外の時は、できるだけ口から水分を少しずつ摂ることを私は勧めています。

小児科という仕事は、子どもの健康に貢献することができる、
とても幸せな仕事だと思っています。

その仕事ができることに常に感謝の気持ちをもって、
診療をおこなっていきたいと思っています。

そして出会った人、一人一人との縁を大切にし、
一人一人の患者さんをていねいに診ていきたいと思います。

これから、どうぞよろしくお願い致します。

ありがとう子供クリニック 院長 二木 良夫